「離任の言葉」 初代校長 丸山 学 先生

 「離任の言葉」は校誌「託麻野」に掲載された、初代校長の丸山学先生が付属高校の校長職を離れられるときに記された文章です。
 付属高校が、どんな学校を目指して、創立されたのか。そして、これからもどんな学校を目指してあるべきなのか──「離任の言葉」はそんなことを私たちに教えてくれる「初心」ともういうべき文章と言えます。

離任の言葉

初代校長 丸山 学(在任期間 昭和三十四年四月一日~三十八年三月三十一日)

 在任四年、しかも創立期に校長の任にあたる責任の重大さは十分自覚していたつもりであるが、微力にして、思うにまかせず、たゞ自分の身辺と世間とをいそがしくしただけのような気がして、おはずかしい次第である。そしていよいよ、校長の職を辞してみると、あれこれと心にのこることのみが多い。

 それぞれに立派な公私立の高等学校があるところに、熊本学園があらたに高等学校を作ると云うからには、それだけの価値のあるものでなければならぬ。熊本学園の建学精神は「人材養成」の一語に尽きる。いまさら公立高等学校の補助校を作る必要はない。公立ではできない立派な人物が養成できるような高校を、と云うのが発足にあたつての発想であつた。その「人物」とは何であるか―と云うことになるといろいろ意見が岐れるのだが、現下の熊本県の状況から見ると、まず英知を持つた人間でなければならぬ、と私は考えた。学業中心の人間形成ということに私は教育計画の基点を据えたつもりである。授業時数は生徒の体力の許す限り多く、一時一刻の無駄もない日課設定、「鉄は熱いうちに打つ」と云う主義である。成績の悪い「人物」はあり得ない、とも云つた。大学進学の希望を持つ男子だけの構成員で、一クラスの人員を四十名代と云う最小限に絞つて、寸分の隙もない充実した日課を積み重ねて行くことにした。そのような学校は県下には他にはなかつたし、そのような学校が一校ぐらい必要だと思つたのである。

 厳格な陶冶とともに明朗な雰囲気が必要だと思つた。みんな互いにものを云いあい、心で結び付くように、と心を配り師弟同行の行事計画を実行にうつした。幸にこの点ではわれわれの学園には立派な伝統があるので、それを付高に移植しさえすればよかつた。運動会を毎年阿蘇の草千里に持つて行つて、全校一団となつて底抜け騒ぎをするなども、このような見地に立つての企画であつた。クラス単位の毎月の野外活動日もそうである。特定の選手を作つてスポーツで優勝して校名を売るなどは私どもの採らぬところであつた。

 気品の向上と云うことがもう一つ創立当初から付属高校が心掛けた点であつた熊本県人が天下にその実績をあげることができなかつた根本の理由の一つは、熊本人に気品が足りないと云うことで、仲間に容れられなかつたことがあげられる。つまりすこし極端に云えば熊本県出身者は粗野で乱暴な野暮人扱いになつていたのであり、県人の中にはそれを誇りとするものさえあつて、人物輩出の大きな癌となつている。これに対して付属高校は学校の品位を最高に高めることにつとめた。まず外形から、服装と態度からそれを実現した。行動の上では暴力に対する厳罸主義を実行した。暴力を揮わないまでも、たゞその場に居あわせたものさえ処罸した。こうした方針は世風に対する明確な反対行動であつたがわれわれは真に世界的な「人物」を養成するためにこの信念を枉げなかつた。

 「珠玉のごとき高校を」と云うのが発足最初の父兄会で私の使つた言葉であつた。そして心中ひそかに私が描いていたヴィジョンは英国の名校イートンやハローであつた。男児が生まれるとともに入学の登録をしておくと云われる英国紳士養成の名門であるが、その気品と風格とはもちろん永い歴史の上に築かれたもので、簡単に真似のできるものではないが、そうした天下の名校ももとは新設校であつたので、われわれもそれを見習う権利だけはあると思つた。幸にわが付属高校は熊本学園の母胎の上に立ち、特色あるモラールと地域社会の強い支持を受けていた。そしてこの高校は出発前から厚い期待が寄せられ、卓絶した教師団と、新設校としては分にすぎた立派な志願者にめぐまれた。私としてはこよなく有り難いスタートであり、いわばがむしやらにこのコースを走つてきた。父兄もまた学校に絶対の信頼を寄せられ、われわれの方が恐縮することが多かつた。これで実績が若しあがらないとすれば、すべての責任は私自身にあると私は終始考えていた。

 そして在任四年、現状はこの文章の冒頭に記した通り、まだまだ多くの仕事をしのこしているし、こと志とちがつた面も多少はあるが、すぐれた後任校長を得て、私はたゞ感謝に満ちて職を辞したのであつた。その最後の日まで実に気持ちよく働らかしてもらい、何一つ不愉快の感をいだくことがなかつたことを無上のよろこびとするものである。なぜ辞めたのか、と多くの人から訊かれたが、それは最後まで非常にたのしく私が仕事をさせてもらつていたことの証明になるであろう。

 付属高校はいまや特色ある私立高校として立派な存在を獲得した。それは生きた一個の有機体である。明確な責任の自覚に立ち、つねに新しく、発溂として伸びて行くにちがいないし、それを私は確信している。私は校長として全校のことについてすべての責任を感じていたが、自分の力でこの学校を作りあげたなどとは毛頭考えていない。すべては周囲の力であり、わけてもこの新設の未完成の学校に自己の運命を堵して馳せ参じて下さつた先生たちのお力である。一人や二人の力でできることではない。影も形もないところに、独立した学校を造り出し、それが世間に認められるだけの生命を持つてくるためには、関係者一同のひた向きな一致結束が必要であつた。それがあつたからこそ、今日こゝこまで来たのである。ありがたいことであつた。今後、時勢がどのように変転するとしてもこゝで一個の高等学校として出発したわが付属高校はおそらくその生命を喪うことはないのである。これは当然のことであるようで、実は非常に重要なことである。そしてこの生きた一つの学校が真に生き甲斐のある生命を保つために、関係者の不断の努力が必要である。校長があつての学校ではなく、学校があつての校長である。つねに発溂として世間の要望に応え、世間から大切にされる学校であるためには学校はいつも若々しくあらねばならぬ。学校は校長のための学校でもなければ教職員や生徒のためのものでもなく、あきらかにそれは社会公共のものである。校長も教職員も適時に交替してさしつかえないのみならず、それが学校をして常に清新ならしめる手段となるものである。すくなくともわが付属高校は光輝ある熊本学園の中の一つの学校として日日に新しい生命力をもつて生々発展することができると信ずる。私はこの確信のもとに校長の職をやめさせていただいたものである。

 最後に、在任中公私ともに格段のお世話に相成つた諸先生や父兄各位に厚く御礼を申し上げるとともに、私の微力のため充分につくすことができなかつたと云う意味で卒業生および生徒諸君に御諒恕を請う次第である。

(昭和三十八年六月)